伊達政宗公

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伊達政宗公

伊達政宗公

1567~1636。伊達家17世当主、仙台藩62万石初代藩主。

 伊達輝宗の長男として永禄10年8月3日、出羽国米沢城に生まれました。母は最上氏義姫。幼名梵天丸。11歳で元服、「政宗」という名は9世「大膳大夫政宗」の名にちなんで名づけられたものです。天正7年13歳で三春城主田村清顕の息女愛姫と婚姻し、天正12年18歳で家督相続。翌年父輝宗が畠山義継に殺されると、反撃にでて畠山氏を走らせ二本松城を収めました。その後佐竹、蘆名、岩城、石川、白河らの連合軍と戦い、仙道人取橋の戦いで撃退しました。覇業は進み、同17年宿敵蘆名氏を磐梯山麓の摺上原に破って会津を略取、黒川城に入ります。会津4郡・仙道7郡をあわせおさめ最大の領土を得て、南奥における伊達氏の制覇をほぼ実現させました。

 しかし、翌年豊臣秀吉の小田原征伐に遅参し、弁明したが会津と仙道南部を没収され、黒川城から米沢城に移りました。同年葛西大崎一揆がおこり、これを鎮圧します。翌天正19年木村吉清・清久父子にかわり旧葛西大崎領を与えられ、仙道長井の本領を没収され、居城も岩出山に移りました。文禄元年・同2年、朝鮮の役に従う。文禄4年関白秀次事件に連座の疑いで詰問されるが許されています。慶長2年従4位下、右近衛権少将に任じられました。

 慶長5年、関が原の戦いでは家康方東軍に味方し、上杉攻撃にあたります。関が原直前に家康よりいわゆる「百万石のお墨付き状」を送られたが、和賀一揆のことなどで反古にされました。その後刈田郡を加封、近江に5,000石、常陸に10,000石加増。慶長6年正月より仙台城の普請を始め、同年4月建築途中の仙台城へ移り、さらに同8年8月江戸より下向し仙台城に入り、移徙の儀を行ないました。同10年・12年領内を検地。塩釜神社社殿修造、大崎八幡宮、陸奥国分寺薬師堂を造営しました。同13年「松平」姓を許され、陸奥守に任じられました。同14年松島の瑞巌寺上棟式。同16年ソテロ、ビスカイノ来仙。同18年支倉長経をローマ法王、スペイン国王のもとに遣わしました。同19年大坂の役に出陣、冬の陣後、長男秀宗に宇和島10万石を賜りました。夏の陣では敵将後藤又兵衛らを討ち、大功がありました。元和6年支倉長経帰国。寛永3年に従3位、権中納言に昇ります。同5年、仙台城の東南4.5㎞の地に隠居所とも称される若林屋敷が完成し、ここに移りました。寛永11年に近江に5000石加増、あわせて62万石となります。同13年5月24日、江戸桜田屋敷にて没。治世52年。行年70歳。瑞巌寺殿貞山禅利大居士と法諡し、正宗山瑞鳳寺(現・仙台市青葉区)に葬られています。

主な参考文献…『宮城県姓氏家系大辞典』(角川書店、平成6年7月)の「伊達政宗」の項