伊達政宗公

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伊達政宗公

仙台城

奥州の覇者「伊達政宗公」の理想が宿る城、「仙台城」。仙台は古くから街道(奥州街道)が走り、海に近く、東に平野がひらけ将来の発展が期待できる土地でした。天下分け目の関が原の時の徳川家康との約束、いわゆる「百万石のお墨付き状」は反古にされ、仙台は領地の真ん中に位置することにはなりませんでしたが、仙台を首都に選んだ政宗公の目に狂いがなかったことは、その後の仙台の発展が証明しています。

仙台城は通称「青葉城」ともよばれ、仙台平野を見下ろす天険の地青葉山に築かれました。標高は高いところで131.4m、東は広瀬川に落ちる64mの断崖、南は80mの深さの竜ノ口狭谷が固める天然の要害です。

本丸の実際の土木工事は慶長6年(1601)から開始され、整地作業、石垣の構築、建物建築工事がすすめられ、同年4月には建築途中の城へ政宗公自身移りました。仙台城の場合、天守閣は築かれませんでした。家康公に敵意のないことを示すため建造を遠慮したともいわれています。代わりに城の中心施設として、俗に「千畳敷」ともいわれる広大な「大広間」がつくられました。

大広間は、大工棟梁として京都より「梅村彦左衛門・彦作」父子が招かれ、彦左衛門が紀伊よりよびよせた天下無双の匠人「刑部左衛門国次」とともにつくりました。内部の豪華絢爛なる桃山様式の障壁画・襖絵は狩野派の絵師「狩野左京」が担当しました。  他にも本丸には、京都の清水寺の舞台に似た、東側の崖にせり出すようにして建てられた「懸造り(かけつくり)」や、艮櫓(うしとらやぐら)・巽櫓(たつみやぐら)など(計5つ)の櫓があり、城下からの眺めはまさに威容を誇っていました。

慶長6年に政宗公が架けた仙台橋の擬宝珠(ぎぼし)の銘文には、「仙台橋 仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天」とあります。神仙世界と同じように仙台藩とその民が、永遠に平和に安らかに栄えるようにとの祈りを込めて政宗公が仙台城と城下町の建設にあたったことがわかります。その意味から仙台城は「平和の祈りの城」ということができます。

これら本丸の全貌は、当館の152席のコンピュータ・グラフィクスシアターで上映されています。どうぞごゆっくりとご鑑賞いただきたいと思います。